『Germanistik Kyoto』
鴨川デルタ
【会員の皆様へのお願い】第24号「会員の論文・翻訳・著書などの目録」の校正
2023年4月1日付けの依頼文書(「Germanistik Kyoto掲載用「業績表」について)でお知らせしましたとおり、第24号に掲載予定の「会員の論文・翻訳・著書などの目録」の原稿を提出してくださった会員の方には掲載内容が正しく記載されているかどうか確認していただくために校正用のファイルをダウンロードできるようにしました。特設ページにアクセスするためには依頼文書に記載されている「PDFファイルのパスワード」をご使用ください(パスワードがわからない場合は支部メールアドレス宛にお問い合わせください)。 校正期間は2023年7月22日(土)とさせていただいておりますので、お早めにご確認いただきますよう、どうかよろしくお願いいたします。
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最新号:第23号(2022)
目次
森口 大地: 〈吐き気〉を催させるヴァンパイア―ゲーテとE.T.A.ホフマンから抽出されるヴァンパイア像
飯島 雄太郎: 語り得ぬものとしての故郷 トーマス・ベルンハルト『行く』における引用による語りについて
武井 佑介: 初級ドイツ語学習者がディスコースマーカーを必要とする会話場面―ドイツ語会話におけるドイツ語・日本語ディスコースマーカーの使用場面と使用方法分析―
投稿・執筆要領
※下の画像をクリックするとPDFファイルが開きます。<2023年度版>
バックナンバー
※クリックすると目次が開きます。
白坂 彩乃: ヴァイニンガーとプラトン的な愛――『 性と性格』を中心に――
鈴木 啓峻: ドミトリー・メレシコフスキーを読むトーマス・マン ――「 第三の国」における「エロス的禁欲」の位相をめぐって――
牧野 広樹: 沈黙するメデイア――クリスタ・ヴォルフ『メデイア さまざまな声』における語りと沈黙――
岡部 亜美: 姿勢動詞 stehen と liegen で建物の所在を表す用法に関するコーパス調査
児玉 麻美: レーナウと検閲――『ドン・ファン』における三月前期の時代徴標について――
橋本 紘樹: 詩と社会をめぐるエンツェンスベルガーの問題圏、『点字』から『時刻表』へ――テーオドル・アドルノへの批判的応答――
牧野 広樹: 青年音楽運動における聴覚論
川野 正嗣: エルンスト・ユンガーにおける「森」の思想――自由と抵抗の人間像
籠 碧: アルフレート・デーブリーン『たんぽぽ殺し』と精神医学――理解できる狂人と理解できない健常者
稲葉 瑛志: 冷たさ、苦痛、有機的構成――1930年代初頭のエルンスト・ユンガーにおける「政治の美学化」言説について
益 敏郎: ヘルダーリンと有罪なる英雄――『ソフォクレスの悲劇』における英雄的形象の変容をてがかりに
麻生 陽子: 三月前期の書く女たち――ドロステの文学的パノラマとしての『ペルデュー! あるいは出版人、詩人、そして文学かぶれの女たち』
西尾 宇広: 『壊れ甕』あるいは裁きの劇場――クライストの劇作家としての自己理解をめぐって
宇和川 雄: ゲシュタルト論争――ベンヤミンのグンドルフ批判
稲葉 瑛志: 前線兵士の知覚の変容――ヴァイマル初期エルンスト・ユンガーの群集イメージ
熊谷 哲哉: 臓器移植と自己意識――ダーヴィット・ヴァーグナーの『生命』について
DAIGI, Yuta: Existenzkonstruktion als Sprechakt――Akzeptabilität der "es gibt"-Konstruktion
須藤 秀平: アイヒェンドルフと「主観」の文学――歴史叙述における詩人の役割
麻生 陽子: 閾の存在としての女吸血鬼とジェンダー――ドロステ=ヒュルスホフの『ローデンシルト嬢』
林嵜 伸二: フランツ・カフカのバベルの塔物語『都市の紋章』
上村 昂史: ドイツ・ルール地方の地域語における前置詞について――融合形に関する一考察
藤原 美沙: 俗物と詩人を超えて――アイヒェンドルフの『のらくら者の生活から』における「子どもらしさ」の考察
山口 久美子: ドイツ語におけるアクセントのない母音eの発音について――Schwaに関する音韻論的考察
今井 敦: 革命的ナショナリズムから技術批判へ――F・G・ユンガーの技術論(1)
須藤 秀平: クライストにおける「自由なる魂」――『ヘルマンの戦い』を中心に
伊藤 白: 『ヨセフとその兄弟たち』の女性像――ムト・エム・エネトに描かれた自己像とナチス像
薦田 奈美: メタファー・メトニミーと意味変化――gutとschönの意味変化を例として
児玉 麻美: 量られる知、危機への予兆――18世紀ファウスト劇における「警告の文字」のモチーフについて
林嵜 伸二: フランツ・カフカのもう一つの<アメリカ>――インディアン像の変遷をてがかりに
千田 まや: 1920年代のトーマス・マンとユーゲント――『魔の山』から『ヨゼフ物語』へ
石澤 将人: 教養の故郷としてのギリシア――ニーチェとブルクハルトの教養理念
小林 哲也: 「純粋さ」と「純化」――『カール・クラウス』におけるベンヤミンの政治的姿勢
NAGAHATA, Saori: Hermine in einem ganz weißen Zimmer――Über Johannes Bobrowskis Erzählung „Ich will fortgehen“
川西 孝男: バイロイトとリヒャルト・ヴァーグナー
熊谷 哲哉: 目的・進化・自由意志――シュレーバーにおける世界認識の問題
高野 佳代: フランツ・カフカの「ユダヤ民族ホーム」支援とリリー・ブラウン回想録
佐々木 茂人: 「小国民の音楽、クレズマーと「発話旋律」
廣川 香織: 身体へのまなざし――ヘルマン・ヘッセの『湯治客』について
加賀 ラビ: 政治的アレゴリーとしてのトーマス・マンの小説『欺かれた女』
青地 伯水: エレクトラの狂乱とディオニュソスの苦悩
伊藤 白: インマ・スペールマンあるいはカーチャ・プリングスハイム――トーマス・マン『大公殿下』における女性像とユダヤ性
樋口 梨々子: 音楽から文学へ――E.T.A.ホフマンの短編『リター・グルック』と「ロマン主義的なるもの」
廣川 智貴: 詩人は病人か?――ゲーテ『トルクヴァート・タッソー』におけるメランコリーについて
青地 伯水: まどろむ不変の定数――保守革命を介してのアイヒとナチスの親和性
川島 隆: カフカ『徴兵』に描かれた異民族「通婚」の挫折――1920年の物語断片に見るロシア像とユダヤ人問題の接点から
寺井 紘子: 描き出される生――ホーフマンスタールの"Bilder"をめぐって
浅井 麻帆: ウィーン分離派の建設費用から見えてくるもの――ルートヴィヒ・ヘヴェシのテクストを通して
PINNAU, Heike: Die Anthropozentrik der Sprache――aus ökolinguistischer Sicht
青木 三陽: ハルトマンのアルトゥースロマンとヴォルフラムの『パルツィヴァール』――「彩りを添えられる」物語
佐々木 茂人: カフカとイディッシュ語――カフカの講演における「ジャルゴン」という表現をめぐって
横道 誠: ムージルがエレメント論を拡張する――受容されたマッハ思想から「培養液」の世界と「新しい人」まで
青地 伯水: アイヒ詩学の転換――その政治的発言との関連
川島 隆: 漢詩を読むカフカ――『ある闘いの記録』における異性愛排除のテーマとの関連から
國重 裕: 「主婦」が書く小説――マルレーン・ハウスホーファー『屋根裏部屋』(1969)について
濱中 春: メタ・イメージとテクスト――リヒテンベルクの『ホガース銅版画詳解』における画中画の解説について
PINNAU, Heike: Optimierung des DaF-Unterrichts durch den Einsatz von Elementen aus alternativen Unterrichtsmethoden――auf der Suche nach einem erweiterten Horizont für den DaF-Unterricht
青地 伯水: エピファニーと強迫的自己認識過程――ホフマンスタールの『騎士物語』とアイヒの『もう一人の私』とにおけるドッペルゲンガーモティーフ
奥田 敏広: トーマス・マンの『フリードリヒ』小説構想について――エロスとナショナリズム
村田 竜道: ロシア軍将校としてのヨハン・ゴットフリート・ゾイメ――あるいはポーランド第2次分割の共犯者としてのゾイメ
中村 敦子: 都市と宗教劇――ドイツ中世宗教劇とその機能
佐々木 茂人: 「バル・コクバ」と「民謡の夕べ」――カフカの東方ユダヤ受容の背景をめぐって
菅 利恵: 父に葬られる娘――フリードリヒ・ヘッベルの『ユーリア』
KAWASAKI, Yasushi: Graphematische Untersuchungen zu den altsächsischen Heliand-Handschriften
Scheiffele, Eberhard: 【書評】Yutaka Yamaguchi: Heinrich Mann Studien
飛鳥井 雅友: 抒情的自我――ベン以前、ベン以後
吉田 孝夫: ローベルト・ヴァルザーと世界劇場――再話的文学の根底について
阿部 美規: 再帰代名詞sichの新しい配語法記述に向けて――現代ドイツ語のコーパスに基づいた分析
中村 雅美: 現代ドイツ語時制論における混乱とその原因について